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日光・鬼怒川流域
昔から日光方面はよく行ったものである。大学の頃は研究で、仕事でも、プライベートでも。
というわけで、日光界隈の空中写真を紹介しよう。
※本サイトで使用している空中写真は以下のものを利用して作成したものである。
 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省
 なお、大サイズの立体写真を見るためにはJAVAの環境が必要である。


■稲荷川源流の荒廃地

■稲荷川下流と東照宮

■日光華厳の滝 

■千手ヶ浜(中禅寺湖に流れ込む自然河川)

■日光白根山

■足尾煙害裸地

■滑老山の崩壊跡地

 
日光・鬼怒川流域のインデックス

■稲荷川源流

日光大谷川の左支、稲荷川は鬼怒川流域を代表する暴れ川である。その原因は源流部を女峰・赤薙山の脆弱な火山堆積物が占めており、これらが崩れ流出するためである。写真を見ると下方に新鮮な崩壊斜面が見られる。このような崩壊地が繰り返し形成されるものと思われる。
このため、明治時代に栃木県が直営で砂防事業を始めたが砂防施設は明治35年の豪雨でことごとく壊され、その後も39年、43年と豪雨が続いたため、大正7年から内務省の直轄砂防事業が行われている。その成果もあり、近年では著しい土砂流出は減ってきている。
  
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稲荷川源頭部荒廃状況

■稲荷川下流と東照宮 

稲荷川と大谷川との合流点右岸側台地に東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺が立地する。ご存じのように東照宮は徳川家康を祀る神社である。二荒山神社、輪王寺は山岳信仰の社寺として奈良時代に建立されたもので歴史は古い。暴れ川の稲荷川もこれらの社寺には被害を与えなかった、というより、暴れ川稲荷川の土石流からも安全な場所に建立した、ということであろう。 個人的には家光が眠る大猷院廟が好きですね。
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稲荷川右岸の日光東照宮

■中禅寺湖と華厳の滝 

おそらく日本で最も有名なである。2万年以上前に活動を始めた男体山が流出した溶岩流が大谷川を塞き止めて中禅寺湖を作った。その中禅寺湖からの水が落差97mの滝となって大谷川に流れ込んでいる。
 
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華厳の滝と中禅寺湖

■千手ヶ浜

日光戦場ヶ原の一画を占める小田代ヶ原から峠を越えて降りてくると柳沢川と外山沢川が作った千手ヶ原が広がっている。この付近から中禅寺湖畔の千手ヶ浜の間は、ミズナラの巨木からなる美しい原生林が広がっている。6月の中旬にはクリンソウが咲き乱れる。一般車の立ち入りは出来ず、ハイカーのみ。左上の湖は西ノ湖。この周辺も美しい。このような場所を歩いていると、つくづく広葉樹の森は美しいと思う。6月の中頃になると、渓流沿いに美しいクリンソウが咲き乱れる。
 
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千手ヶ浜

■日光白根山

群馬県との県境あるのが日光白根山である。古記録によれば1649年2月に噴火し、ふもとに降灰が生じたそうである(郡大早川研HP)。山頂付近には溶岩ドームが形成され、両側から深くえぐられている。みょーに直線的であり、おそらく山体の下に続く弱線が現れたものと思われる。つまりリニアメントというやつだ。
日光白根山の山頂と奥日光湯本温泉とは、わずか4kmしか離れておらず、噴火活動が始まれば大きな影響を受けるだろう。その意味では危険な場所とも言えるが、350年、活動していないんだから深刻に考える必要もない。硫黄臭ぷんぷんの白濁した温泉は、好きだなあ。
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日光白根山の溶岩ドーム

■足尾煙害裸地

日本の公害の原点ともいうべき場所である。足尾銅山の精錬による亜硫酸ガスの影響で松木沢、仁田元沢、久蔵沢の三川が合流するあたりを中心に、草木のない荒廃した風景が続いている。約30年前、卒論の調査で歩いていた頃は、まだ草木の乏しい荒涼とした景観を見せていた。とても日本とは思えなかった。今ではかなり植生が復活してきているが、例えば松木沢の右岸側の急斜面は裸地のままである。
図1はLandsatのBand3と4から作成した栃木県西部の足尾付近の植生指標をグレースケールで表示したものである。白く輝いているところほど植生の活性度が高いことを示しており、黒いところは水部か裸地である。中禅寺湖や男体山の薙、戦場ヶ原の湿地が黒くなっていることがわかるだろう。さらに、足尾町の北西部に広い黒い塊が見える。これが足尾銅山の精錬による煙害裸地である。銅の採掘は1973年に中止され、その後、砂防事業や治山事業によって徐々に緑が回復してきたが、いまだに広い範囲で裸地の状態が続いている。


※右の映像は米国メリーランド大学のGLCFよりダウンロードしたデータにより作成したものである
 
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三川合流部の煙害裸地

足尾鉱山及び中禅寺湖付近のNDVI
■滑老山と五十里洪水

葛老山ってなんだ、なんでしょう。今から約320年前の天和三年(1683)、日光江戸地震の際、この斜面が崩れて鬼怒川を塞き止め、男鹿川と湯西川を塞き止め旧五十里湖とも呼ぶべき天然ダムを形成したのである。この天然ダムはそれから40年後の享保八年(1723)に決壊し、洪水流は鬼怒川を氾濫しながら関東平野に達したのであった。死者約1000名の大災害となった。

滑老山
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